生きていると、思い通りにならない場面に直面する。目指していた学校の入試に落ちた、後輩に昇格を先越された、大事なイベントの日が大雨だった、真っ白なシャツにケチャップが付いてしまった…。大なり小なり、誰しもが経験する心折れる出来事。こんな時、やり場のない感情をどう処理したらいいのか?

北欧の小国デンマークには、「pyt」という言葉がある。pytは、英語や外国語に訳すことができない、デンマークで生まれた独自の造語である。デンマーク人はpytという言葉を使うことで、「ストレスから解放され、前向きになれる」という。そんな “マジカルワード” pytはどんな意味を持つのか。

マジカルワードで幸せに? デンマーク人と幸福度の関係


Photo: TRAQUO

デンマークは「世界幸福度ランキング」で毎回上位にランクされる、世界で最も幸福な国のひとつである。しかし、いかに “幸せなデンマーク人” と言えど、常にハッピーなわけではない。お天気の日があれば雨の日も、雪の日だってある。

では、先のpytはどのような時に、どう使われるのか。デンマークの人たちは、自分ではコントロールできない状況に陥った時に「pyt」と呟くようだ。pytを敢えて直訳すると「気にしない」「心配しない」とも変換される。しかしそれはpytの持つほんの一面であり、本質ではないという。

pytには「どうすることもできないけど、その現実をポジティブに受け入れよう」という、ある種、前向きな意味合いが込められている。ままならない出来事に対し、怒り狂うでもなく立ち向うでもなく、静かに受け入れる。無駄なエネルギーを費やさず、ハッピーでいるために。


Photo: BUSTLE

pytの心境は、何かに似ていると気づいた方もいるだろう。そう、昨今話題となっている「マインドフルネス」である。些末事にとらわれることなく、今この瞬間を大切にする生き方。

マインドフルネスは、深い集中力やストレスの軽減、心の平静が得られることから、医療や福祉の現場でも取り入れられている。また、Googleがマインドフルネス瞑想を採用していることは有名で、良いアイディアを生み出すことや、生産性・仕事のパフォーマンス向上にも繋がることは周知の事実だ。

デンマークでは、それをpytという言葉を通して、誰もが日常的にマインドフルネスを実践しているのは興味深い。

2018年の流行語大賞を獲得


Photo: World Economic Forum

pytは今やデンマークの国民的支持を得ている。2018年9月に開催された、デンマーク・ライブラリ委員会が発表した「流行語大賞」ではグランプリを獲得。主催のスティーンボーディング・アンダーセン会長は、pytが選ばれた理由に「ストレスの多い私たちの生活を反映しているのだろう」と見解を述べた。

デンマークに移住したアメリカ人作家で生理学者のクリス・マクドナルドは、デンマークの全国紙Berlingskeに「pytは、私が知るデンマーク語の中で最もポジティブな音を持つ。この言葉には、変えることのできないものを手放させる、大きな力がある」と寄稿している。

pytという短い言葉が、デンマーク人の幸福度と関係しているかはわからない。しかし少なくとも、幸せに生きるための「小さな知恵」であることは確かだろう。デンマークの人々は、心豊かにしてくれる新しい言葉を使うことで、日々を安寧に過ごすことを、無意識に選んでいるのかもしれない。

PYTボタンで心をリセット。初等教育にも取り入れられるマインドフルネス教育


PYTボタン

pytは幼稚園や小学校など、初等教育にも取り入れられている。教室には「PYT」と書かれたプラスチック製の突起が接着された段ボールが置かれ、子供達はストレスを感じた時など、自由にそのボタンを押すことができるのだ。

例えば、レースやゲームに勝てなかった子達は「PYT」ボタンを押す。そうすることで、子供達は負けても落ち込む必要はないということを学ぶ。

ユトランド州ハンメルにある小学校の校長は、このPYTボタンについて「すべての子供に効果があるわけではないが、物理的にボタンを押すアクションを取ることで、心をクリアにして先へ進むきっかけを作るのに役立っている」と述べている。

PYTボタンは市販もされている。赤地にPYTという白文字の書かれたボタンは、デンマークのあちこちで購入することができる。クイズ番組で使われるようなPYTボタンを押すと「pyt」という音声が出る。物によっては「深呼吸して」という励ましの言葉も加えられた、スペシャルバージョンもあるそうだ。

元祖マジカルワード「hygge」


Hyggeについての書籍も出版されている(Photo: BIRCHBOX)

ここまでpytというマジカルワードについて触れてきたが、デンマークのマジカルワードはこれだけではない。

以前より支持されてきたものに「hygge」がある。hyggeにはpyt同様に英語の直訳はないが、「心地よさ」「毛布にくるまるような温もり」「不安のない状態」というような意味を持つ。インスタグラムではhyggeに450万近いタグがあるくらい、市民権を得ているようだ。

人々はhyggeと呟くことで、あたたかな幸せを感じるという。北欧デンマークは冬が長く日照時間が短い。そんな環境から自然に生まれた、デンマークならではのマジカルワードなのだろう。

さて、マジカルワードはもちろんデンマークに限ったことではない。最後に、欧州の国々で使われる、hyggeに相当するマジカルワードを紹介しよう。

ドイツ:Gemütlichkeit


Photo: mnn

あたたかさ、親しみやすさというような意味を持つ言葉で、居心地の良さや一体感を表す。例えば、カフェのふわふわのソファは単純に「居心地が良い」。だが、「Gemütlichkeit」は、そのカフェのソファに座り、親しい友人たちと過ごす楽しい時間そのものを指すという。

スウェーデン:Mys


Photo: mnn

スウェーデン人は、金曜日の夜は早めに帰宅して、家族や友人とリラックスして過ごす習慣がある。これをfredag​​smysと呼ぶが、この語尾のmysは「外のストレスや寒さから逃れて快適に過ごす」という意味のマジカルワードである。

北欧スウェーデンの寒さは厳しく、特に北部は冬になると24時間陽が差さず、気温は-30度に達することもある。デンマーク同様、あらゆる意味での温もりを求め大切にする、スウェーデンならではの表現だろう。

スコットランド:Cosagach


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2018年のトップトレンドワードにも選ばれたCosagachは、スコットランドの古語であるゲール語で「心地よく、温かく、暖かい」という意味を持つ。英国北部のスコットランドもまた、強い雨風や寒さにさらされる、厳しい気候に属している。

しかしゲール語の専門家の中には、この言葉は本来「虫の住む小さな穴」「隙間だらけ」という意味だと指摘する者もいる。

ノルウェー:Koselig


Photo: mnn

英語では「居心地が良い」と訳されることが多いが、Koseligはさらに、親密さ、暖かさ、幸せや満足という、全ての感覚を包括した表現であるという。

キャンドルが灯された部屋に家族や親しい友人たちが集い、テーブルにはシンプルで健康的な料理や自家製のワッフルが並ぶ。そして食後には熱々のコーヒーを飲みながら談笑する…。この一連のすべてがKoseligなのである。

文:矢羽野晶子
編集:岡徳之(Livit