17の国際目標を掲げる「持続可能な開発目標(SGDs)」。その中の、目標3「健康・ウェルビーイング」、目標7「クリーンエネルギー」、目標11「持続可能な都市・コミュニティ」、目標13「温暖化対策」の達成を脅かす問題が世界中で拡大している。

世界保健機関(WHO)のテドロス・アダノム局長が「新しいタバコ」と形容する大気汚染問題の深刻化だ。自動車や工場から排出される有害物質よって毎年世界中では700万人以上が命を落とし、数十億人が健康を脅かされている。アダノム局長はこの問題を「エピデミック」だとし、問題解決に向けた動きを早急に始めるべきだと警告を発している。

大気汚染による被害というと、喘息など心肺機能への影響がよく知られているが、近年精神疾患や認知症、さらには肥満などを引き起こす可能性を示した研究が多く発表されており、心肺系だけでなく脳など身体のさまざまな部位に悪影響を及ぼすことが懸念され始めているのだ。

大気汚染による健康被害によってもたらされる経済損失も無視できない。世界銀行の推計では、2013年大気汚染で命を落としたり、不健康になったりしたことでもたらされた労働価値の損失は2250億ドル(約25兆円)、医療コストを含めると5兆ドル(約555兆円)以上に上ったという。

WHOによると、世界の子供たちの90%以上が同機関が定める安全基準値を超える大気汚染地域に住んでいる。インドや中国などの南・東アジアに加え、アフリカや中東地域、さらにはロンドンなど交通量の多い先進国の都市部でも大気汚染問題は悪化している。

大気汚染はどのような健康被害をもたらすのか、またどれほど広がっているのか、近年の研究からその実態に迫ってみたい。


(画像)大気汚染が深刻なインド・デリー

幻聴、うつ、知能レベルの低下など、大気汚染がもたらす健康被害

2019年3月に医療ジャーナルJama Psychiatryで公開された論文では、英国の大気汚染がひどい地域に住んでいる10代の若者の間で精神疾患が多い傾向が明らかになった。

これはキングス・カレッジ・ロンドンの研究者らが英国在住の17歳の若者2000人以上を対象に行った調査。窒素酸化物レベルが高い地域に住む若者はそうでない地域の若者に比べ、幻聴や極度の偏執病(他人が自分を批判しているという妄想を抱く症状)などを体験した割合が70%高かった。

同調査は因果関係を示すものではなく、騒音なども影響している可能性があるとしている。しかし、喫煙、飲酒、マリファナ、家庭状況などを考慮しても、窒素酸化物と精神疾患の間には強い関連があり、無視できないものだと指摘している。

窒素酸化物は主にディーゼル車から排出される物質。英国の多くの地域では安全基準値を超える水準にあり、住民から政府への対策要請が強まっている状況だ。

近年では窒素酸化物の脳への悪影響を示す研究が多く発表されていることも手伝い、英国では「Doctors Against Diesel」という医師らが結成したグループが政府にディーゼル利用の制限を求めるなどの取り組みが活発化している。


(画像)Doctors Against Dieselウェブサイト

2018年9月に発表されたイェール大学公衆衛生大学院の研究者らによる論文も大気汚染による脳への悪影響を示している。

中国在住の2万人を対象に実施された調査で、二酸化窒素と二酸化硫黄の濃度と、言語・計算のテスト結果を比べたところ、大気汚染がひどい場所に長くいるほど、テスト結果は悪くなり、特に言語能力に悪影響を及ぼすことが明らかになった。

さらに、女性より男性の方が悪影響を受けやすいことも判明した。教育期間に換算すると平均で1年分が失われる計算になるという。

大気汚染が酸化ストレスや神経炎症を引き起こし、認知能力が下がる可能性が指摘されている。また、長期だけでなく、短期でも悪影響が出る可能性が高いという。

大気汚染と若年層のうつ病との関連性も指摘されている。2019年2月に医療ジャーナルPsychiatry Researchで発表された研究では、子供が12歳頃に大気汚染のひどい地域で育った場合、18歳までにうつ病になる可能性が3〜4倍高いことが判明した。

研究者らは、大気汚染物質は微細で、脳内に達っすることも可能で、そこで炎症を起こし、うつ症状を引き起こしている可能性があると指摘している。

大気汚染と子供の肥満の関連性を指摘する研究者もいる。南カリフォルニア大学の研究らが英国で実施した調査によると、生後1年以内に高いレベルの二酸化窒素を吸った子供はそうでない子供に比べ、体重増加速度が速く、10歳になる頃には、平均で約1キログラムほど重くなる。二酸化窒素が脳に悪影響を及ぼし、それにより食欲や代謝システムが変化してしまうことが考えられるという。

2018年9月パリで開催された欧州呼吸器学会でロンドン大学クイーン・メアリーの研究者らが発表した研究結果にも大きな関心が寄せられている。この研究では、ロンドン在住の妊婦の胎盤を調べたところ、胎盤内に大気汚染物質が混入していることが判明。

汚染物質が胎盤から胎児に移るかどうかは分からないものの、研究者らはその可能性は大いにあると指摘している。胎盤内の大気汚染物質が発見されたのは今回が初めて。大気汚染問題に警鐘を鳴らす研究結果としてさまざまなメディアが伝えている。

このような危機感を背景に、北欧などでは脱自動車を目指す都市が増えているのはSDGsの達成に向けても前向きな動きといえるだろう。今後は中国やインドなど大気汚染がひどいといわれる国々でどこまで状況が改善するのか、その動向が気になるところだ。

文:細谷元(Livit