ビジョナリーか、リアリストか。

自分はどちら寄りの人間か考えたことがあるだろうか。

起業家もどちらかに寄っている。マーケットの規模やビジネスモデルを考えた上で、新しい事業を立ち上げていくタイプ。もしくは、マーケットの規模やビジネスモデルよりも先に、自身のビジョンや目指したい世界があり、その実現に向けて事業をつくるタイプだ。

もちろん、前者の起業家も実現したい世界を描く。だが、中にはビジョンドリブンで事業を立ち上げていく起業家も存在する。音楽でつながるコミュニティアプリ「nana」を立ち上げた株式会社nana musicの文原明臣氏は、明らかに後者のタイプの起業家だ。

ビジョンをどう描くのか、どう実現に向けて進んでいくのか。文原氏の歩みを振り返っていく。

文原明臣
1985年神戸生まれ。神戸高専在学中にF1レーサーを志し、モータスポーツの世界に飛び込むものの、あと僅かのところで手に届かず挫折。その後様々な経験を積み、2012年に音楽を通じたコミュニティサービス”nana”を構想し起業。現在に至る。

「nana」という音楽の新たな可能性

「音楽とインターネットで世界をつなぎたい」――nanaはそんな文原氏のビジョンから始まったサービスだ。

「nana」は、スマホを世界とつながるマイクと捉えて、音楽で世界中の人とコラボレーションできるサービス。ユーザーは、スマートフォンで自身の歌声や楽器演奏を録音し、nanaに投稿できる。ユーザー同士で録音した音を重ね合わせたり、他のユーザーの投稿にコメントをすることで、ユーザー同士のコミュニケーションが生まれていく。

現在はユーザー数が300万人を突破。nanaフェスなどのユーザー参加型のリアルイベント開催の他に、ユーザーが自主的に開催するイベントも多いのだという。nanaは音楽好きが集まるコミュニティアプリとして、成長を続けている。

投資家から「nanaはビジネスとして成功するのが難しい」と言われながらも、nana musicは、2012年のサービスリリースから約4年半後の2017年1月にDMM.comに買収され、会社は新しいフェーズに入った。

nana music代表の文原明臣氏は、nanaを世に届けるために、どのようにビジョンを語ることで人を惹きつけてきたのか。仲間や資金を集める中での苦労をどのように乗り越えてきたのだろうか。

音楽でプロになるよりも、一生歌い続けることを選んだ

文原氏の音楽との出会いは、高校生にまで遡る。

高校一年生の頃、文原氏がテレビを見ていると、缶コーヒーのFIREのCMが流れ、そこでスティービー・ワンダーの楽曲が使用されていた。スティービー・ワンダーの歌声との出会いが、文原氏の人生に音楽という新たな彩りを加えたという。

当時の衝撃を文原氏は次のように語ってくれた。

文原「スティービー・ワンダーの魂を揺さぶるような歌声を聞いて、衝撃を受けたんです。それまでに聞いてきた音楽とは全く別で、目の前に新しい世界が開けていくような感覚でした。同時に、自分もスティービー・ワンダーみたいに歌えるようになりたい。音楽で人を感動させられるようになりたい。そう思ったんです」

「ジャズバーで歌うシンガーになりたい」文原氏は音楽の道に進むことを一度考えたものの、音楽を職業にするという選択肢は選ばなかった。

そんな文原氏が目指した夢は、F1レーサーになることだった。最初のきっかけは、そこまで特別なものではなかった。文原氏の父親や兄が大の車好きで、19歳の頃に免許を取るために車に乗り始めたのが、車に興味を持った最初のきっかけだったという。同時期にテレビでF1レースを観て、そこで活躍する選手に憧れるようになったと、文原氏は当時を振り返る。

文原「先日、F1の世界三大レースのひとつ『インディ500』に、佐藤琢磨というレーサーが日本人として初めて優勝したことが話題になりました。僕が19歳の頃、画面の向こう側で活躍していた佐藤琢磨に憧れて、F1レーサーを目指したいと考えるようになったんです。佐藤琢磨は19歳からレーシングカーを始め、5年でF1に辿り着いた方でした。当時19歳の僕に『今からF1レーサーを目指しても遅くはない』という希望を与えてくれたんです」

それまで抱いていたジャズシンガーの夢と、どのように折り合いをつけ、F1レーサーの道を志したのだろうか。

文原「音楽でプロになるよりも、一生歌い続けたいと思っていたんです。実は、音楽の道に進むことはそこまで考えていませんでした。モータースポーツは10代や20代の若い時期にしか挑戦できないものです。音楽は、どの年齢でも付き合うことができます。それに、音楽表現には、その人の経験が色濃く現れる。いろいろなことを経験した後のほうが、音楽は良くなる可能性がある。だから、まずはモータースポーツを経験しようと思ったんです」

「今」しかできないことは何か。そう考えた文原氏は、モータースポーツの道へと進んだ。だが、この決断をする際に生まれた「音楽とは長く付き合っていきたい」という思いは、後に生まれるプロダクトにも反映されている。

nanaはプロのミュージシャンを目指す人よりも、アマチュアや趣味として音楽を楽しむ「サンデーアーティスト」を主な対象としたサービスになり、音楽を楽しみ続けたいユーザーが多い。

「楽しんだ人間こそが勝つ」と気づいた

文原氏は2008年に鈴鹿サーキット主宰のレーシングスクールにトップの成績で入学。当時の文原氏は23歳で、スクールは16歳から18歳の学生がほとんどだった。レーシングスクールに通う10代の学生たちは、10年以上ともにF1レーサーを目指しているような仲で、文原氏はどうしてもそこに馴染めずに、自らの殻にこもりがちになってしまった、と当時を振り返る。

モータースポーツには、最低でも年間数百万円以上の資金が必要になる。トッププレイヤーにもなれば、その額は1億円をこえることもあり、メーカーがスポンサーとなってプレイヤーの活動を支えている。当時、スクール生として活動する文原氏も資金が必要だった。

アルバイトで稼いだお金をマシン代にあて、家族や知人からお金を貸してもらってレースを続けていったが、身を削っての資金繰りは長く続けられるものでもない。文原氏にとって、スクールを主席で卒業することが生き残るための道だった。

文原「レーシングスクールを主席で卒業できれば、ホンダがスポンサーとして就いてくれる。スポンサーが就けば、F1レーサーを目指して活動を続けることができる。そう考えてストイックに打ち込んでいました」

文原氏はモータースポーツのみに打ち込んでいたが、それでも主席では卒業できず、途中で資金が尽きてしまい、夢を諦めることになった。

文原「自分は全力を尽くして、ストイックに頑張っていたつもりだったんです。でも、入れ込みすぎてメンタルを崩してしまって。一方で、10代の学生はレースを楽しみながら、結果を出していた。私はスクールにトップの成績で入学したものの、卒業する頃には他のメンバーに抜かれてしまったんです」

「ただストイックに打ち込むだけではなく、楽しむことが大事なんだ」–文原氏は、当時の経験からこう考えるようになった。「楽しんだ人間が勝つ」ということを身をもって経験をした文原氏は、「楽しむこと」を常に大切にするようになる。その後、借金もある中で、文原氏は別の道に進むことになった。だが、一度全力投球した夢を諦めてから再びスタートを切ることは簡単ではない。

文原「目標がなくなってしまって、心にぽっかり穴があいてしまったような気分でした。でも、段々とモータースポーツ以外の世界が見えてくるようになってきたんです」

世界中の人々を音楽でつなぐサービスをつくりたい

新たな世界を見つけようと顔を上げた文原氏が強く関心を持ったのが、「インターネット」だった。当時、黎明期だった「ニコニコ動画」での体験が、文原氏のインターネットへの関心を高めていった。

2009年当時はTwitterも日本に上陸し、徐々に盛り上がっている頃。文原氏はTwitterを通じて、インターネットでの情報発信やコミュニケーションの面白さに惹かれていくようになる。

文原「今振り返るとわかるのですが、ニコニコ動画やTwitterに共通しているのは、集合知の面白さでした。誰かが自分の作ったものを投稿して、それを他の人が料理して、また新しく面白いものが生まれる。このアイデアの連鎖で人の想像力が膨らむのがたまらなく楽しかったんです」

サービスに対して感じていた面白さ。徐々に、それを自分でも生み出してみたいと文原氏は考えるようになる。

文原氏はTwitterを活用する中で、メディアの記事を読んだり、東京の起業家と交流したりすることで、テクノロジーやスタートアップといった分野に関心を持つようになった。当時、神戸に住んでいた文原氏はTwitterで交流があった東京の起業家やIT・スタートアップ関係の仲間と会うために、東京に遊びに来たこともあった。

文原「スタートアップや起業への関心が高まる中で、起業のためのアイデアをEvernoteに溜め続けていました。でも、起業するとなると、『自分はどんなテーマで起業するべきか』がわからなくて、迷っていた時期もありました」

文原氏が起業のテーマを模索する中で出会ったのが、2010年1月に発生したハイチ地震のために歌われた「We Are The World 25 For Haiti」だ。

この動画を見た時の感動が、nanaのアイデアの原案となる。

文原「『We Are The World 25 For Haiti (YouTube Edition)』で世界中の様々な地域のミュージシャンがコラボしていているのを見て、衝撃を受け、『これが自分の実現したい世界だ』と直感しました。この動画との出会いが、世界中の人を音楽でつなぐというnanaのコンセプトにつながりました」

「F1ドライバーを目指していた時のワクワク感が戻ってきたんです」と、nanaのコンセプトを発見した当時の瞬間を文原氏は楽しそうに振り返る。

この時から、nanaを事業として成り立たせるために、文原氏の挑戦が始まった。

ビジョンを語り続けることで、周囲を巻き込む

インターネットの面白さに気づき、自身が取り組むべきと思えるテーマを見つけただけでは、起業はできない。新しく事業を始める際に必要になるのが、仲間と資金だ。だが、最初はなかなかやろうとしていることが理解されなかった。

文原「最初は、自分のやりたいことを伝えても『よくわからない』といった反応をされました。まだないものを作ろうとしているので当然ですよね」

やりたいことは見つかった。だが、協力が得られず、実現に向けてなかなか進まない。きっと、さぞかしもどかしい時期だっただろう。文原氏はどのようにして自身のビジョンに共感してくれる仲間や、ビジョンに共感してお金を出してくれる投資家を、自分の描く夢に巻き込んでいったのだろうか。

文原「自身のビジョンや実現したい世界について語り続けることで、少しずつ、少しずつ応援してくれる方が増えていきました。マーケットの規模やビジネスモデルの有用性を語るのではなく、アイデアの熱量や愛が伝播することを信じて、自身のやりたいという想いを自分の言葉で伝えていきました」

「ビジョンを語り続けること、行動をし続けること」が重要だと文原氏は語る。描いたビジョンがすぐに伝わらなくても、自分がどれだけビジョンの実現に向けて取り組んでいるかという姿勢は相手に伝わる。

逆境で大切になる「あきらめたくない」という気持ち

nana musicは順風満帆だったわけではない。これまで、幾度となく苦境に立たされてきた。事業を成功させるのは難しい。文原氏は2012年にnanaをリリースするまでも、そしてリリース後も様々な困難と向き合うことになる。

サービスリリース前には、nanaのアプリ開発の業務を外部委託していたエンジニアがコードを一行も書いていないことが発覚し、アプリのリリースが大幅に遅れてしまうトラブルに見舞われた。「想定していた計画が全て崩れてしまい、頭が真っ白になりました」と、文原氏は当時の苦労を思い出す。

なんとかエンジニアを見つけ、2012年にサービスをリリース。リリース当初はメディアにも取り上げられ、ユーザー数も伸びていたものの、数カ月でユーザー数が伸び悩むようになった。増資を検討していても、なかなか出資してくれる投資家が見つからない中、ついに2013年2月には資金がキャッシュアウトしてしまう。

文原「2013年2月に、会社にお金がなくなりました。社員の給料やサーバー代、自分の食費すら払えない中、お金を集めることに追われて、とても苦しい時期を過ごしました。プロダクト開発に集中したいのに、会社にエンジニアもいなく、nanaを成長させられなかったのがとても苦しかった」

2013年11月には5,000万円の出資が決まり、なんとか会社を継続させられるようになる。

文原「10ヶ月間もがき続けた末に、11月に5,000万円の出資が決まったんです。増資をしてくれた投資家の方は、『We Are The World』の世界を実現したいというメッセージに共感して出資してくれて。実現したいビジョンが、会社とサービスを存続させてくれました」

どんな困難に遭遇しても、文原氏は「世界中の人々が一緒に歌える世界をつくりたい」という夢を諦めなかった。諦めない力強さの裏には、F1レーサーを目指していた時代の悔しさがあった。

文原「F1レーサーを目指していた時、お金を理由に夢を諦めざるを得ませんでした。その時、どうしようもない社会の不条理のようなものに負けてしまったと思っていて。nanaでは、お金を理由に事業を諦めることだけはしたくなかったんです」

nanaユーザーとの交流がビジョンを支えてくれた

どんな困難を経験しても、文原氏は諦めずにnanaを育ててきた。「お金を出してもらった投資家や、自分の夢に共感してくれた仲間を裏切れない」そんな信念が文原氏を支えつつも、nanaのユーザーとの交流も文原氏の大きな支えになっていた。

「nanaは音楽に強い関心を持っているユーザーに深く刺さることを目指したサービス」と、文原氏が語るように、決して万人受けするサービスではない。しかしながら、音楽を通じた人とのコラボやコミュニケーションを楽しいと思えるような人がnanaの熱狂的なファンとなり、nanaの音楽コミュニティを育ててきた。獲得ユーザー数が伸び悩んでいた時期に、nanaユーザーがオフィスに遊びに来てくれたことがあったという。

文原「6人のユーザーが連絡をくれて、オフィスに遊びに来てくれたことがあるんです。彼らは頼んでいないのに『このサービスが好きだから、ビジネスモデルを考えてきたよ』とnanaのことを真剣に考えてくれていて。それだけnanaのことを必要としてくれている人がいるという事実が、事業に取り組む支えになりました」

「nanaを本当に必要としてくれているユーザーがいるならば、自分が目指している方向性は間違っていない」文原氏の想いはユーザーとの交流を通じて、確信に変わっていく。

文原「会社の資金が底をつきた時にサービスを改修しようにも、会社にエンジニアがいなくて、何もできなかったんです。せめて、自分たちだけでできないことは何かを探る中で、nanaユーザーを集めたイベントの開催を思いつきました。イベントを通じて、ユーザーの熱量をリアルな場に落とし込み、ユーザーとの結びつきをより強くしようと思ったんです」

nanaはその後、定期的にイベントを開催するようになる。2014年にはユーザー参加型ライブイベント「nanaフェス」を初めて開催。コアなnanaユーザーが集い、ユーザーによる生ライブやカラオケ大会が開催された。

「nanaフェス vol.1」の様子

イベントの最後には、『We Are The World』の全体合唱も行われ、nanaというサービスのもつ熱量を体験できるようなイベントだった。「ユーザーと直接関わる機会をもっと増やしたい」と文原氏は考え、nanaフェスは定期開催のイベントとなり、今年で4回目の開催を迎える。

2017年1月にはnanaのユーザー数が300万人を突破し、nana musicはDMM.comに買収された。nana musicを取り巻く環境が変わる中で、文原氏の心境にも変化が訪れた。

文原「資金の心配がなくなることで、会社経営や組織づくり、そしてプロダクトの成長に集中できるようになりました。組織の人数が増えたことで、経営者の役割も変わってきます。nanaを立ち上げた頃のようにプロダクトだけに集中したり、ユーザーと直接関わるような機会はどうしても減ってしまって。nanaを一緒に作り上げる仲間が働きやすい環境をつくるために、会社経営や組織づくりを担うという自分の役割を全うしつつ、プロダクトやユーザーにより直接的に向き合う方法を模索しています」

資金繰りに苦しんだ時期もプロダクトに集中することは難しかったが、資金面の不安がなくなっても、プロダクトに集中することは難しいようだ。それでも、文原氏は自分の目指すビジョンの実現に向けて邁進する。彼は、nanaのさらなる成長のため、これから何を目指すのだろうか。

文原「世界を音楽とインターネットでつなぐために、まずは100カ国で100万ユーザーの獲得を目指します。現在はインド、タイ、北米などの地域でユーザー数が伸びてきていますが、それだけでは100カ国展開にはまだ足りません。様々な価値観の人々を、音楽という共通言語でつないでいくために挑戦していきます」

新しいことに挑戦しようとしても、周囲の共感を得られないことがある。反対されることも往々にしてあるだろう。文原氏は様々な困難に遭遇しながらも、歩みを止めなかった。「音楽とインターネットで世界をつなぐ」心の底からこの世界を実現したいというビジョンを語り続け、周囲の共感や信頼を徐々に獲得していったからこそ、今のnanaがあるのだろう。

Photographer: Hajime Kato